桧ケ根の戦い
昔は色んな事で争ったんだなぁ。
こんな世の中に生まれてこなくてよかったです。
家康の追撃と岩崎城の戦い
家康は、4月7日に三好秀次勢が篠木(春日井市)辺りに宿営したあたりから近隣の農民や伊賀衆からの情報で秀次勢の動きを察知。翌4月8日に小幡城(名古屋市守山区)に入った。その夜半陣立てを決め、翌4月9日未明から地元の丹羽氏次・水野忠重と榊原康政・大須賀康高ら4500を先鋒として秀次勢の追撃を開始させ、家康・信雄も間髪いれず出陣した。
秀次勢は家康が小幡城に入った8日に行軍を再開し、9日未明には池田勢が丹羽氏重(氏次の弟)が守備する岩崎城(日進市)の攻城を開始する。氏重らはよく戦ったが、約三時間で落城し玉砕した(岩崎城の戦い)。
これも通説では先鋒の池田恒興勢が岩崎城から出撃した丹羽氏重の挑発の銃撃を受け、それが恒興が乗っていた馬に命中、恒興は落馬してしまい、恥をかかされ激怒した恒興は、この作戦が「奇襲」ということを完全に忘れ岩崎城攻略に取り掛かったとされている。
この間、森長可、堀秀政、三好秀次の各部隊は、現在の尾張旭市、長久手町、日進市にまたがる地域で休息し、進軍を待った。しかし、そのときすでに家康勢は背後に迫っていた。
白山林の戦い
岩崎城攻城戦が行われている頃、三好秀次勢は白山林(名古屋市守山区・尾張旭市)に休息していたが、後方から水野・丹羽・大須賀勢、側面から榊原ら先鋒勢の一斉攻撃に見舞われた。この奇襲によって秀次勢は成す術がなくほぼ潰滅する。秀次自身も乗馬を失い、供回りの馬を与えられ辛くも逃げ遂せた。また、目付け役として付けられていた木下祐久(秀吉の正室ねねの父。杉原定利とも)やその弟の木下利匡を初めとして多くの木下一族が、秀次が落ちる余裕を稼ぐために討ち死にした。これを白山林の戦いという。
桧ケ根の戦い
秀次勢より前にいた堀勢に、秀次勢の敗報が届いたのは約2時間も後のことであった。堀秀政は直ちに引き返し、秀次勢の敗残兵を手勢に組み込んで迫り来る先鋒勢を待ち構えた。秀次勢を撃破して勢いに乗った先鋒勢は、ほどなく檜ヶ根(桧ケ根、長久手町)辺りで秀政勢に襲い掛かったが、かつて信長に可愛がられ、戦上手なことから「名人久太郎」と尊称された秀政の前に敗退した。これを桧ケ根(檜ヶ根)の戦いという。
しかしこの時、秀政は家康の馬印である金扇を望見し、「戦況は我が方に有利ではない」と判断し兵を引いて退却した。先鋒・池田恒興、次鋒・森長可に家康出現の報が伝わったのはこの頃、両将は驚愕し大慌てで引き返し始めた。その頃、家康は康政勢の敗残兵を組み込み、現在は「御旗山」と呼ばれる辺りに陣を構えた。右翼に家康自身3300余、左翼には井伊直政3000余、これに信雄勢3000を足して9000以上。一方、引き返して対峙した恒興・長可勢は右翼に恒興の嫡男・池田元助(之助)・次男輝政4000余、左翼に長可勢、後方に恒興が陣取りこちらも9000余。対峙は2時間ほど続いたという。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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