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スハルト 9月30日事件について

職業軍人としてのキャリアは本当に目覚ましいものだったようです。
大変貴重な人物だったのですね。

日本軍政期には、1943年、軍政当局が組織したペタ(郷土防衛義勇軍)に採用される。そこでも小隊長、中隊長へと昇進し、インドネシア人士官の訓練にもあたった。

第二次世界大戦後にペタは解散したが、インドネシアは1945年8月17日に独立を宣言、降伏した日本に代わって植民地支配の復活を狙ったオランダとの間で独立戦争が始まった。この時期、オランダに抵抗する正規・非正規の軍事組織が多数発足したが、スハルトは同年9月に組織された正規軍に参加し、ペタ時代の実績を買われて副大隊長に選ばれた。翌10月に共和国軍が正式に発足すると、大隊長に任命された。このインドネシア独立戦争中、スハルトは野戦指揮官としての評価を高めた。なお、この時期、1947年、下級貴族の出のシティ・ハルティナと結婚している。

独立後も陸軍で実績を重ね、インドネシア独立後もオランダの支配が続いていた西イリアン(ニューギニア島)解放(侵攻)作戦で活躍し、1963年に陸軍戦略予備軍の司令官に就任した。


9月30日事件
1950年代の議会制民主主義体制(1950年憲法体制)を葬り去ったスカルノは、大統領に強大な権力を付与した1945年憲法を復活させ、「指導される民主主義」を高らかに宣言した。スカルノは、勢力を拡大しつつあったインドネシア共産党をみずからの支持基盤として、外交的にも徐々に親共路線を強めていった。国軍内にも親共派の影響が広がり、スハルトら国軍主流派は危機感を抱いていた。

そのような状況下で、1965年9月30日、大統領親衛隊長ウントゥン中佐が率いる左派系軍人が、陸軍参謀長ら6将軍を殺害するというクーデター(9月30日事件)が発生した。事件の詳細な経緯はいまなお明らかにはなっていないが(スハルトは事前にこのクーデター計画を察知していたという説もある)、スハルトは、スカルノから事態の収拾に当たるための権限を与えられ、速やかにこれを鎮圧した。同年10月16日、陸軍大臣兼陸軍参謀総長に就任したスハルトは、事件にかかわった共産党の指導者・一般党員を多数殺害し、党組織を物理的に解体した。この「共産主義者狩り」の過程では、共産党との関係を疑われた一般住民にも多数の犠牲者が出た(その総数はいまなお不明)。

従来の親共路線の責任を問われたスカルノは、翌1966年2月21日に新内閣を発表して、なおも政権を維持しようとしたが、陸軍、イスラーム系諸団体、学生団体などによるスカルノ糾弾の街頭行動が活発となり、辞任要求の圧力を抑えることができなかった。同年3月11日、スカルノは秩序回復のための一切の権限をスハルトに与える「3月11日命令書」にサインし(させられ)、その実権をスハルトに譲った。スハルトは、1967年3月に大統領代行に、そして1968年3月には第2代大統領に就任した。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2008年01月08日 23:39に投稿されたエントリーのページです。

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