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      <title>a02185	似鳥の日常</title>
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         <title>桧ケ根の戦い</title>
         <description><![CDATA[
昔は色んな事で争ったんだなぁ。
こんな世の中に生まれてこなくてよかったです。


家康の追撃と岩崎城の戦い
家康は、4月7日に三好秀次勢が篠木（春日井市）辺りに宿営したあたりから近隣の農民や伊賀衆からの情報で秀次勢の動きを察知。翌4月8日に小幡城（名古屋市守山区）に入った。その夜半陣立てを決め、翌4月9日未明から地元の丹羽氏次・水野忠重と榊原康政・大須賀康高ら4500を先鋒として秀次勢の追撃を開始させ、家康・信雄も間髪いれず出陣した。

秀次勢は家康が小幡城に入った8日に行軍を再開し、9日未明には池田勢が丹羽氏重（氏次の弟）が守備する岩崎城（日進市）の攻城を開始する。氏重らはよく戦ったが、約三時間で落城し玉砕した（岩崎城の戦い）。

これも通説では先鋒の池田恒興勢が岩崎城から出撃した丹羽氏重の挑発の銃撃を受け、それが恒興が乗っていた馬に命中、恒興は落馬してしまい、恥をかかされ激怒した恒興は、この作戦が「奇襲」ということを完全に忘れ岩崎城攻略に取り掛かったとされている。
この間、森長可、堀秀政、三好秀次の各部隊は、現在の尾張旭市、長久手町、日進市にまたがる地域で休息し、進軍を待った。しかし、そのときすでに家康勢は背後に迫っていた。


白山林の戦い
岩崎城攻城戦が行われている頃、三好秀次勢は白山林（名古屋市守山区・尾張旭市）に休息していたが、後方から水野・丹羽・大須賀勢、側面から榊原ら先鋒勢の一斉攻撃に見舞われた。この奇襲によって秀次勢は成す術がなくほぼ潰滅する。秀次自身も乗馬を失い、供回りの馬を与えられ辛くも逃げ遂せた。また、目付け役として付けられていた木下祐久（秀吉の正室ねねの父。杉原定利とも）やその弟の木下利匡を初めとして多くの木下一族が、秀次が落ちる余裕を稼ぐために討ち死にした。これを白山林の戦いという。


桧ケ根の戦い
秀次勢より前にいた堀勢に、秀次勢の敗報が届いたのは約2時間も後のことであった。堀秀政は直ちに引き返し、秀次勢の敗残兵を手勢に組み込んで迫り来る先鋒勢を待ち構えた。秀次勢を撃破して勢いに乗った先鋒勢は、ほどなく檜ヶ根（桧ケ根、長久手町）辺りで秀政勢に襲い掛かったが、かつて信長に可愛がられ、戦上手なことから「名人久太郎」と尊称された秀政の前に敗退した。これを桧ケ根（檜ヶ根）の戦いという。

しかしこの時、秀政は家康の馬印である金扇を望見し、「戦況は我が方に有利ではない」と判断し兵を引いて退却した。先鋒・池田恒興、次鋒・森長可に家康出現の報が伝わったのはこの頃、両将は驚愕し大慌てで引き返し始めた。その頃、家康は康政勢の敗残兵を組み込み、現在は「御旗山」と呼ばれる辺りに陣を構えた。右翼に家康自身3300余、左翼には井伊直政3000余、これに信雄勢3000を足して9000以上。一方、引き返して対峙した恒興・長可勢は右翼に恒興の嫡男・池田元助（之助）・次男輝政4000余、左翼に長可勢、後方に恒興が陣取りこちらも9000余。対峙は2時間ほど続いたという。















引用『ウィキペディア（Wikipedia）』
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         <pubDate>Mon, 18 Feb 2008 19:14:30 +0900</pubDate>
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         <title>スハルト 9月30日事件について</title>
         <description><![CDATA[職業軍人としてのキャリアは本当に目覚ましいものだったようです。
大変貴重な人物だったのですね。

日本軍政期には、1943年、軍政当局が組織したペタ（郷土防衛義勇軍）に採用される。そこでも小隊長、中隊長へと昇進し、インドネシア人士官の訓練にもあたった。

第二次世界大戦後にペタは解散したが、インドネシアは1945年8月17日に独立を宣言、降伏した日本に代わって植民地支配の復活を狙ったオランダとの間で独立戦争が始まった。この時期、オランダに抵抗する正規・非正規の軍事組織が多数発足したが、スハルトは同年9月に組織された正規軍に参加し、ペタ時代の実績を買われて副大隊長に選ばれた。翌10月に共和国軍が正式に発足すると、大隊長に任命された。このインドネシア独立戦争中、スハルトは野戦指揮官としての評価を高めた。なお、この時期、1947年、下級貴族の出のシティ・ハルティナと結婚している。

独立後も陸軍で実績を重ね、インドネシア独立後もオランダの支配が続いていた西イリアン（ニューギニア島）解放（侵攻）作戦で活躍し、1963年に陸軍戦略予備軍の司令官に就任した。


 9月30日事件
1950年代の議会制民主主義体制（1950年憲法体制）を葬り去ったスカルノは、大統領に強大な権力を付与した1945年憲法を復活させ、「指導される民主主義」を高らかに宣言した。スカルノは、勢力を拡大しつつあったインドネシア共産党をみずからの支持基盤として、外交的にも徐々に親共路線を強めていった。国軍内にも親共派の影響が広がり、スハルトら国軍主流派は危機感を抱いていた。

そのような状況下で、1965年9月30日、大統領親衛隊長ウントゥン中佐が率いる左派系軍人が、陸軍参謀長ら6将軍を殺害するというクーデター（9月30日事件）が発生した。事件の詳細な経緯はいまなお明らかにはなっていないが（スハルトは事前にこのクーデター計画を察知していたという説もある）、スハルトは、スカルノから事態の収拾に当たるための権限を与えられ、速やかにこれを鎮圧した。同年10月16日、陸軍大臣兼陸軍参謀総長に就任したスハルトは、事件にかかわった共産党の指導者・一般党員を多数殺害し、党組織を物理的に解体した。この「共産主義者狩り」の過程では、共産党との関係を疑われた一般住民にも多数の犠牲者が出た（その総数はいまなお不明）。

従来の親共路線の責任を問われたスカルノは、翌1966年2月21日に新内閣を発表して、なおも政権を維持しようとしたが、陸軍、イスラーム系諸団体、学生団体などによるスカルノ糾弾の街頭行動が活発となり、辞任要求の圧力を抑えることができなかった。同年3月11日、スカルノは秩序回復のための一切の権限をスハルトに与える「3月11日命令書」にサインし（させられ）、その実権をスハルトに譲った。スハルトは、1967年3月に大統領代行に、そして1968年3月には第2代大統領に就任した。

引用『ウィキペディア（Wikipedia）』
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         <pubDate>Tue, 08 Jan 2008 23:39:15 +0900</pubDate>
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         <title>連続児童殺害事件　第二回公判</title>
         <description>先日の公判で鈴香被告が『今はまだ死ねない、米山さんの恨みをぶつける相手がいなくなるから』といいましたが、都合よく自分を正当化して死刑を免れようとしているだけだと凄く腹立たしかったです。
もし、彩香ちゃんが殺害されてなかったとしても、ご飯もろくに食べれない、お風呂も入れない生き地獄のような生活が続いていただろうと思うとやるせないですね。


『参照記事』

秋田県藤里町で昨年起きた連続児童殺害事件で、殺人などの罪に問われた畠山鈴香被告（34）の第2回公判が21日午前、秋田地裁（藤井俊郎裁判長）で開かれた。検察側証人として出廷した団地の住民代表の男性らは、畠山被告の長女彩香ちゃん＝当時（9つ）＝がいつも汚れた服装で、風呂にも入っていないようだと述べ、被告から疎まれていた様子を証言した。
　午前中に2人、午後に4人が検察側証人として出廷する。
　長男が彩香ちゃんと、二男が米山豪憲君＝同（7つ）＝と同級生だったという住民代表の男性は、「彩香ちゃんはいつも汚れた同じ服だった。髪もぼさぼさで、べとべとしていた」などと指摘。被告から「客が来ているから外で遊んでいるように」と言われた彩香ちゃんが、暗くなっても1人でいる姿が何度も見られたと証言した。
　昨年のクリスマスイブには「二男から『魔法で豪憲を生き返らせて』とお願いされた」と語り、「何で素直に話さないのか。団地内は極刑を望んでいる」と述べた。
　小学校で担任だった女性教諭は、畠山被告に彩香ちゃんを風呂に入れるよう薦めたら、「プールがお風呂代わり」と言われたと証言。家庭訪問では「体調が悪く、朝ご飯がつくれない。彩香と話が続かない」と悩みを打ち明けられたという。


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         <pubDate>Fri, 21 Sep 2007 18:15:11 +0900</pubDate>
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